INICIAR SESIÓNそれから、透は週に二回、あのカフェに通うようになった。
神谷と会えるのは、そのうち半分くらい。 でも、会えない日も、透はそこにいることが心地よかった。 神谷がいつも座っている空間。 神谷が飲んでいるコーヒー。 それだけで、透は少しだけ神谷に近づけた気がした。 四月の半ば。 透は、いつものようにカフェにいた。 今日は水曜日。神谷の診察が終わる時間には、まだ少し早い。 透は、ノートパソコンを開いて仕事をしていた。 企画書を作りながら、ときどき窓の外を見る。 もう、すっかり春だった。 通りを歩く人々の服装も軽やかになり、街路樹の緑も濃くなっていた。 (綺麗だな) 透は、そう思った。 前までは、こんな景色に気づきもしなかった。 でも今は、小さな変化にも心が動く。 それは、神谷と出会ってからだった。 ドアが開く音がして、透は顔を上げた。 神谷だった。 透の心臓が、跳ねた。 神谷も、透に気づいた。 そして、小さく微笑んだ。 その笑顔を見るたびに、透の胸は温かくなった。 神谷は注文を済ませ、透の席にやってきた。 「今日は、お仕事中ですか?」 「あ、はい。でも、ちょうど切りがいいところです」 透は、パソコンを閉じた。 神谷は、いつものように透の向かいに座った。 「邪魔をしてしまいましたか?」 「いえ、全然」 透は首を振った。 「むしろ、嬉しいです」 そう言ってから、透は少し恥ずかしくなった。 でも、神谷は優しく微笑んだ。 「私も、です」 その言葉に、透の胸がまた温かくなった。 ふたりは、コーヒーを飲みながら、何気ない会話を交わした。 仕事のこと。 最近読んだ本のこと。 好きな音楽のこと。 会話は途切れることなく続いた。 そして、透はふと気づいた。 (俺、こんなに自然に話せてる) 取り繕うことも、空気を読むことも、相手の顔 色を伺うことも。 何もしていない。 ただ、思ったことを話している。 それが、こんなに楽なことだったなんて。 「朝倉さん」 神谷が、透の名前を呼んだ。 「はい?」 「最近、表情が柔らかくなりましたね」 透は、驚いて神谷を見た。 「前は、いつも少し緊張しているような顔をしていました。でも今は……」 神谷は、透をじっと見つめた。 「とても、いい顔をしています」 透は、胸が熱くなった。 「……ありがとうございます」 それしか、言葉が出なかった。 神谷は、コーヒーカップを手に取った。 「私も、朝倉さんと話していると……」 神谷は、少し迷うように言葉を選んだ。 「肩の力が抜けます」 透は、神谷を見つめた。 神谷も、透を見つめ返した。 ふたりの間に、言葉にならない何かが流れた。 それが、何なのか。 透には、もう分かっていた。 でも、口にするのが怖かった。 カフェを出たのは、夜の八時を過ぎた頃だった。 外は、すっかり暗くなっていた。 「もう、こんな時間ですね」 神谷が、時計を見て言った。 「本当ですね」 透も、スマホで時刻を確認した。 「あの……」 神谷が、少し躊躇うように言った。 「よろしければ、駅まで一緒に歩きませんか?」 透の心臓が、大きく跳ねた。 「はい」 ふたりは、並んで歩き始めた。 夜の街は静かで、街灯の光が道を照らしていた。 ふたりの影が、地面に並んで伸びている。 「今日は、ありがとうございました」 透が言った。 「こちらこそ」 神谷が答えた。 「私、こうして誰かと話すこと……あまり、なかったので」 「え?」 透は、驚いて神谷を見た。 神谷は、少し寂しそうに笑った。 「仕事の話はしますが、プライベートで誰かと話すことは……ほとんど、ありませんでした」 「そうだったんですか」 「ええ。だから、朝倉さんと話すのは……とても、新鮮です」 透は、胸が締め付けられるような気がした。 この人も、孤独だったんだ。 自分と同じように。 「俺も、です」 透は、正直に言った。 「先生と話していると……自分が、自分でいられる気がします」 神谷は、足を止めた。 透も、立ち止まった。 ふたりは、向かい合った。 街灯の光が、神谷の顔を照らしていた。 「朝倉さん」 神谷が、真剣な表情で言った。 「私、あなたと話していると……」 神谷は、言葉を探すように間を置いた。 「何か、大切なものを取り戻していくような気がします」 透は、息を呑んだ。 「それが何なのか、まだはっきりとは分かりません。でも……」 神谷は、透をまっすぐ見つめた。 「あなたと一緒にいると、私は……」 神谷の言葉が、途中で止まった。 まるで、言ってはいけないことを言いかけたかのように。 「……すみません」 神谷は、視線を逸らした。 「変なことを言いました」 「いえ」 透は、首を振った。 「変じゃないです」 透は、勇気を出して言った。 「俺も、同じです」 神谷は、驚いたように透を見た。 「先生と一緒にいると、俺は……自分が生きてるって、実感できるんです」 透の声は、少し震えていた。 「今まで、ずっと誰かのふりをして生きてきた気がします。でも、先生の前だと……」 透は、神谷をまっすぐ見つめた。 「本当の自分でいられる」 神谷の瞳が、揺れた。 ふたりは、しばらく見つめ合っていた。 言葉は必要なかった。 視線だけで、すべてが伝わる気がした。 でも── 「……行きましょう」 神谷が、先に視線を逸らした。 「駅、まだ先ですから」 「あ、はい」 ふたりは、また歩き始めた。 でも、さっきまでとは空気が違っていた。 何かが、変わってしまった気がした。 透は、自分が言いすぎたのではないかと不安になった。 神谷も、どこか戸惑っているように見えた。 駅に着くと、ふたりは改札の前で立ち止まった。 「では、また」 神谷が、そっけなく言った。 「はい。また」 透は、神谷の背中を見送った。 神谷は、一度も振り返らなかった。 透は、胸に冷たいものが広がるのを感じた。 (やっぱり、言いすぎたんだ) 透は、自分を責めた。 (あの人を、困らせてしまった) 透は、重い足取りで改札を抜けた。 その夜、透は眠れなかった。 ベッドに横になりながら、何度も今日のことを思い返した。 神谷の表情。 神谷の言葉。 そして、最後に見せたあの戸惑い。 (もう、会えないかもしれない) そう思うと、胸が苦しくなった。 透は、枕に顔を埋めた。 (好きなんだ) 透は、ついに認めた。 (俺、神谷先生のことが好きなんだ) でも、その気持ちを伝えることはできない。 伝えたら、今の関係すら失ってしまう。 透は、天井を見つめた。 窓の外から、街の音が聞こえてくる。 世界は、いつも通り動いている。 でも、透の世界は、今夜から少し色を失った気がした。 同じ夜、神谷も眠れずにいた。 ソファに座り、窓の外を見つめていた。 今日の朝倉の言葉が、頭から離れなかった。 「先生と一緒にいると、俺は自分が生きてるって実感できるんです」 その言葉が、神谷の心を激しく揺さぶった。 (私も、同じだ) 神谷は、自分の気持ちを認めた。 朝倉透と一緒にいると、神谷は生きている実感を得られる。 長い間、失っていたもの。 それを、この人は取り戻させてくれる。 でも── 神谷は、目を閉じた。 過去の記憶が、蘇ってくる。 大切な人を失った、あの日。 あの痛み。 あの後悔。 (もう、誰かを失いたくない) 神谷は、そう思っていた。 だから、距離を置いてきた。 誰とも深く関わらないように。 でも、朝倉は、その壁を越えてきてしまった。 (どうすればいいんだろう) 神谷は、答えの出ない問いを繰り返した。 このまま、距離を置くべきなのか。 それとも── 神谷は、立ち上がった。 寝室へ向かいながら、神谷は心の中で呟いた。 (ごめんなさい、朝倉さん) (私は、まだあなたに応えられない) 神谷は、ベッドに横になった。 でも、眠れそうになかった。 朝倉の顔が、瞼の裏に浮かんでは消えた。 長い、長い夜だった。 翌日、透はカフェに行かなかった。 その次の日も。 そのまた次の日も。 透は、神谷と距離を置こうとした。 これ以上、自分の気持ちを大きくしたくなかった。 これ以上、神谷を困らせたくなかった。 でも、心の中では、ずっと神谷のことを考えていた。 会いたい。 話したい。 笑顔が見たい。 その気持ちが、日に日に強くなっていった。 一週間が過ぎた。 神谷は、毎日カフェに通っていた。 朝倉が来るかもしれない、と思って。 でも、朝倉は現れなかった。 神谷は、自分が何を期待しているのか分からなかった。 距離を置いたのは、自分だ。 なのに、朝倉が来ないことに、失望している。 (矛盾している) 神谷は、自分を責めた。 でも、心は正直だった。 会いたい。 もう一度、話がしたい。 あの笑顔が、見たい。 神谷は、コーヒーカップを見つめた。 冷めたコーヒーが、底に残っていた。三年後──春の陽射しが差し込むカフェ。透と神谷は、窓際の席に座っていた。「ここ、本当に久しぶりだね」透がカフェラテを一口飲みながら言った。神谷も周囲を見渡して、懐かしそうに微笑んだ。「ああ。最初に、医師と患者以外の関係で話したのが、ここだった」「神谷さん、あの時すごく驚いた顔してたよね」「そうだったか?」「うん。『こんなところで会うとは』って顔してた」神谷は少し照れくさそうに笑った。「確かに、驚いた。偶然だと思っていたから」「俺も」透は窓の外を見た。「でも、今思えば、あれは偶然じゃなかったのかもしれない」「運命、とでも?」「うん」透は神谷を見つめた。「運命だったんだと思う」神谷の目が、優しく細められた。「……俺もそう思う」ふたりは、しばらく静かにコーヒーを楽しんだ。カフェには、穏やかな音楽が流れている。平日の午後、客はまばらで、ゆったりとした時間が流れていた。「そういえば」神谷がふと思い出したように言った。「透、今日は仕事休みだったのか?」「うん。有給取ったんだ」「何か特別な用事でも?」
◆春 桜の花びらが舞う、三月の午後。 透と神谷は、あの小さな公園を訪れていた。 出会ってから、もう二年が経とうとしていた。 「ここ、久しぶりだね」 透がベンチに座りながら言った。神谷も隣に腰を下ろす。 「そうだな。最後に来たのは……いつだったか」 「去年の夏だったかな」 透は空を見上げた。 「あの時は、すごく暑かったよね」 神谷は微笑んだ。 「透が、アイスを三本も食べた日だ」 「神谷さんだって二本食べたじゃん」 ふたりは笑い合った。 公園の桜は、満開だった。風が吹くたびに、花びらが舞い散る。 透は一枚の花びらを手のひらで受け止めた。 「綺麗だな」 「ああ」 神谷は透の横顔を見つめていた。桜色の光に照らされた透の顔は、穏やかで、幸せそうだった。 「透」 「ん?」 「今、幸せか?」 透は神谷を見て、少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと笑った。 「うん。すごく」 神谷の表情が
同棲を始めて半年が過ぎた、秋の夜だった。透がキッチンで夕食の準備をしていると、リビングから神谷の声が聞こえた。「透、ちょっといいか」いつもより少し、硬い声だった。透は手を拭いてリビングに戻ると、神谷がソファに座って、何かのパンフレットを手にしていた。「どうしたの?」透が隣に座ると、神谷は少し躊躇うように視線を落としてから、パンフレットを差し出した。「パートナーシップ制度について」表紙にそう書かれた、市区町村が発行している案内だった。「これ……」透の声が、少し震えた。神谷は透の横顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。「この前、クリニックの患者さんで、パートナーシップ証明書を持っている方がいたんだ。ふたりで受診に来られて、とても自然に、お互いを支え合っていた」神谷の声は、静かで、でも確かな意志を含んでいた。「それを見て……俺も、透と、そういう関係でいたいと思った」透はパンフレットを手に取り、ページをめくった。パートナーシップ制度の説明、申請方法、必要な書類。活字が、透の視界に入ってくる。「法的な効力は限られているけど」神谷が続けた。「病院での面会や、賃貸契約での同居人証明、いろいろな場面で、ふたりの関係を証明できる」透は、パンフレットを握りしめた。「……神谷さん」「嫌なら、無理にとは言わない。ただ、俺は――」「嫌なわけない」
八月。 夏の暑さが、東京を包んでいた。 透と神谷は、それぞれの仕事で忙しい日々を送っていた。 ある週末の朝。 透は、珍しく早く目が覚めた。 隣で、神谷がまだ眠っていた。 穏やかな寝顔。 透は、その顔をじっと見つめた。 (この人と出会って、もうすぐ二年になる) 透は、そう思った。 あの日、眼科を受診したことから、すべてが始まった。 視線を逸らしていた自分。 本当の自分を隠していた自分。 でも、神谷と出会って、変わった。 透は、そっとベッドを出た。 キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。 リビングに戻ると、神谷が起きていた。 「おはようございます」 神谷が、眠そうに言った。 「おはようございます」 透は、コーヒーカップを差し出した。 「ありがとう」 神谷は、カップを受け取った。 ふたりは、ソファに並んで座った。 「朝倉さん」 神谷が、コーヒー
七月の第一土曜日。 佐藤と美咲の結婚式の日がやってきた。 透と神谷は、朝から準備をしていた。 「このネクタイ、どうでしょうか?」 神谷が、鏡の前で聞いた。 「いいと思います」 透は、自分のスーツを着ながら答えた。 「先生、似合ってますよ」 「ありがとう」 神谷は、少し照れた。 「あなたも、素敵です」 ふたりは、鏡の前に並んだ。 スーツ姿のふたり。 「緊張しますね」 神谷が、言った。 「はい」 透も、頷いた。 「でも、楽しみです」 「公の場で、カップルとして出席するのは……」 神谷の声が、少し震えた。 「初めてですね」 透は、神谷の手を取った。 「大丈夫ですよ」 透は、微笑んだ。 「佐藤の友達は、みんないい人たちです」 「はい……」 神谷は、深呼吸をした。
五月に入った。 新緑の季節。 透と神谷の生活は、相変わらず穏やかだった。 でも、神谷の中には、ひとつの決断が芽生えていた。 ある夜、神谷は遅く帰ってきた。 「ただいま」 神谷の声は、少し疲れていた。 「おかえりなさい」 透は、キッチンから顔を出した。 「遅かったですね。大丈夫ですか?」 「はい……」 神谷は、ソファに座り込んだ。 透は、神谷の隣に座った。 「何かあったんですか?」 神谷は、少し迷うような顔をした。 そして、口を開いた。 「実は……榎本院長から、話があって」 「どんな話ですか?」 「新しいクリニックを、もうひとつ開きたいと」 神谷は、透を見た。 「そこの、院長になってほしいと言われました」 透の目が、大きく見開かれた。 「院長……?」 「はい」 神谷は、頷いた。 「僕に、任せたいと」